資格は、だれのための信頼なのか――「借りた自信」について考える
「資格を取って、自信がつきました」という言葉を聞くことがあります。
それは、とても自然な感覚です。試験へ向けて学び、時間をかけ、合格という結果を得たのですから、以前より胸を張れるのも不思議ではありません。
けれど、もう一歩だけ考えてみると、少し奇妙なところもあります。資格を得る直前と直後とで、その人の技術や経験、判断力、まして人格までが一夜にして別物になるわけではありません。
すでに身につけていた力を、社会が認めた。その出来事を境に、「自分を信じてよい」と思えるようになるのです。
なぜ私たちは、自分の中にあるものを、自分だけではなかなか信頼できないのでしょうか。
資格は技術を測り、技術をつくる
資格の分かりやすい役割は、知識や技術が一定の水準に達していることを確認し、社会へ示すことです。
初めて会う相手の能力を一から確かめるのは困難ですから、共通の基準による証明は、仕事を頼む人にも、採用する側にも安心を与えます。安全や正確さが求められる分野では、とりわけ大きな意味を持つでしょう。
ただし、資格は、すでにある技術を後から測るだけではありません。資格という型ができることで、それまで散らばっていた知識が整理され、新たな学びの道筋が生まれる場合もあります。
仮に、「利き納豆士」という資格を作るとしましょう。認定するためには、豆や産地の違い、発酵と香り、味や食感、納豆の歴史や食文化、さらに、その魅力を人へ伝える力などを整理する必要があります。
出題範囲や学習課程が整えば、何となく食べ比べていた人の感覚にも言葉が与えられ、教える人や深く学ぶ人が育つかもしれません。資格は技術の影として生まれるだけでなく、技術や文化を育てる器にもなります。
一方で、型を作るとは、どこまでをその技術と呼ぶか決めることでもあります。試験で確かめやすい知識の外には、土地ごとの食べ方、食卓の記憶、長年の勘、うまく説明できない好みも残ります。
資格によって明るく照らされるものがあるとき、その光の外へこぼれるものもあるのです。
資格は、ある分野のすべてではありません。けれど、何も意味しない紙でもありません。技術を見える形にしながら、同時に「技術とは何か」を形づくるものなのだと思います。資格に限らず、評価のものさしと、人の学びとの関係を考えるときにも、同じ二面性が現れます。
努力から生まれる自信と「借りた自信」
資格を得て生まれる自信にも、いくつかの成分があります。
一つは、学ぶ過程そのものから育つ自信です。
何度も練習し、分からなかったことを理解し、以前はできなかったことができるようになる。「自分は実際にこれを扱える」「ここまで積み重ねてきた」という感覚は、本人の経験に根を持っています。
もう一つは、社会的な承認から受け取る安心です。
たとえば弁護士の資格のように、世の中で重く受け止められる肩書を得れば、一定の能力がある人として扱われ、周囲の応対も変わります。そこで大きく変化するのは、本人の中身だけではなく、その人と社会との関係です。
他者が信頼してくれる。仕事を任せてくれる。名乗るだけで、まずは話を聞いてもらえる。その反応に支えられて、「これなら自分も自分を信じてよいのだろう」と思えるようになります。
これを、「借りた自信」と呼んでみてもよいかもしれません。
借りた自信は、偽物の自信ではありません。新しい仕事へ踏み出すとき、まだ経験の少ない自分を支える足場になります。他者の信頼を先に受け取り、それを頼りに実践を重ねることもあるでしょう。そもそも人は社会の中で育つのですから、自信が自分の内側だけで完結する必要もありません。
それでも、気をつけたい逆転があります。本来は、他者が自分を信頼するための手がかりだったはずの資格が、自分で自分を信頼するための許可証にまでなることです。
資格、学歴、受賞歴、活動歴、肩書、周囲からの評価。それらがなければ、自分の関心や技術、感じ方まで信じられない。外から認められたときだけ、自分には価値があると思える。
そうして、自分を信頼する根拠そのものを外側へ明け渡してはいないでしょうか。
資格を得ても、自分は自分のままである
認定を受けた当初には、高揚や安心があるでしょう。しかし、しばらくすると、自分は以前から地続きの自分であると気づきます。
資格を持っていても、分からないことはあります。失敗もします。自分より優れた人に出会い、試験では問われなかった力を実務で求められます。知識があっても、目の前の相手の話を聴く力や、事情の入り組んだ場面で判断する力まで、常に保証されるわけではありません。
このとき、自信のほとんどを肩書に預けていると、「資格を持っているのに、なぜできないのか」「この名にふさわしい人間になれていないのではないか」と、自分を責めやすくなります。自分を支えるはずだった証明が、今度は自分を追い立てる基準にもなるのです。
資格が示しているのは、一定の地点を通過したことです。その人の全体や、その後のあらゆる判断の正しさではありません。これを区別できれば、分からないことがある自分と、資格を持つ自分とは、矛盾しなくなります。
自分自身への信頼とは、「自分はいつでも正しい」「何でもできる」と思うことではないのでしょう。むしろ、「この場面なら、自分なりに考えられる」「分からなければ調べたり、人に尋ねたりできる」「誤ったときには修正できる」「不足があっても、自分の経験や感覚を扱っていける」という見通しに近いものです。
誤らない自分を信じるのではなく、誤りにも向き合える自分を信じる。資格から受け取った安心は、実践の中で、そうした信頼へ育て直すことができます。
「本人を見る」ための外形
この問題は、推薦入試の指導にもつながっています。
学力入試には、同じ問題を同じ尺度で採点するという意味で、ある種のフラットさがあります。少なくとも、何を評価されたのかは比較的明瞭です。その反面、試験の得点だけでは、本人の関心や人柄、これまでの活動、将来の可能性まで十分に捉えられません。
そこで推薦入試や面接では、点数だけでなく、なるべく本人を見ようとします。この発想にも大切な意味があります。ただ、本人そのものを短い書類や限られた面接時間で理解するのは容易ではありません。すると、資格、受賞歴、活動歴、役職、継続年数といった、確かめやすい証明へ重心が移ります。
「本人を見る」ために始まった制度が、いつしか「本人を示すための外形」を競う制度へ傾く。そこには、避けがたい皮肉があります。
和会塾で推薦入試の指導をするときにも、この逆転には注意が必要だと考えています。
「何か資格を取ろう」「活動実績を増やそう」「賞に応募しよう」「書類に書ける経験を作ろう」といった発想が先に立てば、生徒さんの本来の関心は、願書の空欄を埋める手段になりかねません。
もちろん、資格取得や活動への参加をきっかけに、興味が深まり、新しい世界が開けることもあります。問題は、外形があることではなく、それが本人を理解する代わりになってしまうことです。
受賞歴や活動歴は、その人を知る材料です。その人の価値を成立させる根拠ではありません。何をいくつ並べられるかよりも、なぜ心を動かされたのか、そこで何を見たのか、どこで迷い、何を試したのか、その経験によって世界の見え方がどう変わったのか。その歩みのほうに、本人の姿が現れます。
目立った賞のない小さな関心の中に、長く考えてきた跡があるかもしれません。華やかな活動歴の中にも、まだ本人が言葉にできていない大切な経験があるかもしれません。外形を捨てるのではなく、その奥にいる人へ目を戻すことが必要です。
推薦入試の本質と、その指導のあり方も、結局はそこから考えるほかないのだと思います。
何を求め、何を見ようとしているのか
判定する側、指導する側、そして本人には、それぞれ異なる役割があります。その違いを認めたうえで、誰もが「自分はいったい何を求め、何を見ようとしているのか」を問い直す必要があります。
判定する側であれば、この資格や受賞歴から何を知ろうとしているのか。
努力の持続、分野への関心、協働する力、将来性のうち、何を見たいのか。外形から何かを読み取るはずが、いつの間にか外形そのものを高く評価してはいないか。限られた条件の中で公平に判断する責任があるからこそ、証明と人物を同一視しない慎重さが求められます。
指導する側であれば、合格しやすい形へ本人を加工しようとしていないか。
本人が自分の経験を理解し、自分の言葉で表せるように助けているか。評価者の視線を中心に据え、生徒さんの日々や関心まで組み替えてはいないか。合格へ向けた支援は大切ですが、そのために本人が自分から遠ざかるなら、何を支援しているのか分からなくなります。
本人であれば、他者から認められる材料を集めたいのか、自分が本当に深めたいことを形にしたいのか。評価を受けたいと思う自分も否定せず、それでも、誰にも評価されなかったとして、この関心を大切にできるだろうか。
どれも、簡単に答えの出る問いではありません。外形を用いずに人を判断することも、社会の評価をまったく意識せずに進路を選ぶことも現実的ではないでしょう。だからこそ、何のために証明を求めているのかを見失わないことが、制度を使う側にも、支える側にも、評価する側にも求められるのだと思います。
借りた自信を、自分自身への信頼へ
資格を捨てれば自由になれる、という話ではありません。自信はすべて自分の内側だけから生み出すべきだ、と言いたいのでもありません。
資格は、技術を体系化し、学ぶ道筋を作ります。一定の能力を社会へ示し、他者が安心して人を信頼する助けになります。本人にとっても、次の一歩を踏み出す支えになるでしょう。人は、誰かに認められることで、初めて自分の中にあった力に気づく場合もあります。
ただ、「他者が自分を信頼するための根拠」と、「自分が自分を信頼するための根拠」は、完全には重なりません。
資格は、社会が私たちを信頼する助けにはなる。けれど、自分が自分を信頼する根拠まで、資格へ明け渡してしまってはいないだろうか。
借りた自信を、急いで返す必要はありません。その足場に立って仕事をし、学び、人と関わり、失敗し、考え直せばよいのです。その経験が積み重なるにつれて、「認められたから信じられる」という安心は、「自分はこれまで向き合ってきたし、これからも向き合っていける」という信頼へ姿を変えていきます。
資格や受賞歴、肩書は、本人を理解するための手がかりです。本人そのものではありません。
外から与えられた言葉だけでなく、自分の中にあるものを確かめる。そのために和会塾では、対話を一つの授業科目として扱っています。自分の経験や考えを、すぐに評価や結論へ変えずに見つめる時間を大切にしているからです。
名前のついた証明の外にも、感じ、考え、学び、試し、修正していける自分がいます。
資格を持つ自分だけでなく、資格では言い表せない自分にも信頼を置くこと。それは華々しい「自信」ではなくても、長く自分を支える、静かな土台になるのではないでしょうか。
外形の奥にある経験を、言葉にしてみたい方へ
和会塾の推薦・進路支援では、資格や活動歴を本人の価値そのものとは見なしません。
一方で、それらを捨てるのでもなく、何を経験し、どこで迷い、何を考えてきたのかを知る手がかりとして丁寧に扱います。
[支援の実際] 資格や活動歴の奥にあるものを、どのように扱うかを見る
[対話の時間] 外から与えられた言葉を急いで答えにしない対話について見る
