コラム

学力は“伸ばす”もの? ― ものさしと『学び』の本当の関係

wowja

勉強すれば成績が上がる。
成果を出せば評価される。
それ自体は間違っていないはずなのに、どこかで苦しさを感じるのはなぜでしょうか。

本当に大切な「学び」とは何か。
人がそれぞれに育っていく道のりを、ひとつの型で測ろうとするとき、私たちは何を見失ってしまうのか。

国語専科では、「評価」や「成果」から少し距離をとって、人の本質的な「伸び」を見つめ直すことを大切にしています。
この記事では、その背景にある考え方を共有します。

ものさしのある評価

これまでも、おそらくこれからも、得点や評定・技術的な理解や出来高などは、基本的に高いほうが推奨されることは疑いないでしょう。

そのためには、

  • もっと勉強する!
  • もっと役立つ教材・問題集、塾を見つける!
  • もっと効率よく、成果の出る勉強法など方法論を探る!

といった作業も変わらずに行われるはずです。

もちろん、これらは個人の技量の向上や社会の発展のため不可欠のものですから、全く悪いことではありません。

けれど、それだけで“人の学び”を語ることはできるでしょうか?

ここでは何か型やものさしがあるものとして事柄が把握されています(得点や成績などなど)。

こうした把握の仕方からは、すでに定まった長さのものさしを当てて、人や物事を評価することになります。

そのものさしにかなうためには、詰め込んだり、鍛えたりしなければ目指す場所へ到達しない、そこまで伸びないという論理になりやすいです。

本来の「学び」はどこにある?

けれど、もう一歩「学び」の深い意味を考えてみると、何を学びとするかこそがポイントかもしれないことが見えてきます。

いわゆる得点や出来高・表彰ではなく、さらに人の内実のようなものを「学び」とすることは可能でしょうか。

本当に幼いころは、人はどんなことでも学んでいます。

指の動かし方や、お米粒の食べ方、周りの人の話し方や笑い方、怒り方……などから、言葉で説明できる以上のことを学んでいるのです。

それは、現在成長したあなた自身がこれを読んでくださっていることからも明らかです。

遊びやスポーツ、何でもない会話、日常の活動から、自分がいかなる存在なのか、そのあり方はどのようなものなのかという深淵まで、「学び」の対象は人が想像できる最大の幅を持つもののはずです。

そういった学びを支援することは、この世界で無限無数の興味関心や特徴・特質を備えた各個人が、その人自身芽吹き育つこと、すなわちおのずと「伸びる」ことに繋がりやすいでしょう。

社会が「多様な学び」を受け入れるとき

学びの幅を制限せず、あらゆる可能性を与える志向性により、ゆっくりではあるでしょうが、その分野が世の中で発展することは確かです。

つまり、世界・社会の側にもそのような「学び」(対象)を受け入れる土台が出来上がるということです。

さまざまな分野の大学・専門学校が創設され、いろいろな職業・働き方が生まれるのは、この土台が作られてきたからともいえます。

こうした多様な学びへのまなざしを、私たちの中にも培っていくこと自体も、今後より重要性の高まる「学び」のひとつです。

型により曲がる人

遺伝的・環境的・社会的要因や、本人の性質など、人は多種多様な特質を享けて生まれ、生活しています。

これらの要素が複雑に絡み合ってはいますが、赤ちゃんを見れば分かるように、人はそれぞれ本来の「伸び」を持っています。

とにかくよく泣く子もいれば、何も言わなくても静かにしている子もいます。よくしゃべる子がいれば、ずっと物をいじっている子もいます。

したがって、むしろ得点や成績・出来高などをものさしとして使うからこそ曲がってしまうのだ、という点に、いよいよ気付くべきときが訪れている気がしてなりません。

型により押し付けられたものは、しばらくの間は表向きうまくいきます。

しかし、ゆくゆくは本人が大丈夫なつもりでも体調を崩したり、頑張っているのに成果が出ずエネルギーだけ失ってしまったりと、問題が発生することも多いです。

(他の記事でも触れましたが、たとえば猛勉強の末難関校を受験して合格し、その後不登校になるという例は尽きません。)

人間の“よかれ”が生む新たな型

ここで留意しなければならないのは、型を破って、その人自身の「伸び」を支援する! と掲げた場合でも、そのこと自体が新たな型になってしまいかねない点です。

「推薦入試の本質」の記事でも取り上げましたが、自分自身の興味関心を伸ばし、それを入試のため、あるいは入社試験のため、社会のために活用するという発想がいつの間にか強くなりがちです。

作られた興味関心や実績は、すでにそういう入試や社会の「型」に乗っかるという表明ですから、知らないうちに成績による評価などと同じ路線へ入っているわけです。

このように、私たちはいつでも型(よかれと思うこと)を生み出して、それを適用しようとする性質を持っていることへの理解が大切だと考えます。

邪魔しない、曲げない妙技

よかれと思うからこそ、いかに邪魔しないか、曲げてしまわないか。

これまでもこれからも、そうした単なる技術ではない、絶妙な技が求められているのかもしれません。

本人が自分に対して不適切なふるまいをすることも当然ありますから、その場合は指導やしつけを行うことも、せっかくの本人の伸びを妨げないことに繋がります。

このような姿勢で本人と関わることで、周りの人も自分自身に自然と反射して気づかされる部分が大きいものです。

最後は、人がいかに自分自身そのものを生かしてあげられるか、ということに集約していきそうですね。

あなた自身にとって、その“伸び”とはどこから育つものなのでしょうか――。

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わたなべ
わたなべ
東京大学法学部卒業。
司法試験合格、研修後、業界を転向。
“対話で学びを拓く”をテーマに活動しています。
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