コラム

その意見はどこから来たのか

木陰のベンチと、街へ続く小道を歩く人々を描いた水彩風のイラスト
わたなべ

あるニュースを読み、その下のコメント欄を開く場面を想像してみます。記事だけではよく分からなかったのに、強い批判が並んでいるのを見ているうちに、自分も腹立たしくなってくる。反対に、事情を説明するコメントを読んで、そう簡単には責められないと思うこともありそうです。

そこへ「いいね」の数も加わります。たくさんの人が支持しているように見える言葉は、それだけで確かな意見に感じられるかもしれません。

私たちは何について、何をもとに自分の意見を持つのでしょう。今回の探究は、そんな疑問から始まりました。

初めに考えたのは、自分の身の回りに触れる事柄から、広く世界へ目を向けていく順序が自然なのではないか、ということです。けれど、そう言う前に確かめたいことがありました。私たちが考える話題や判断の材料は、どのように自分のところへ届いているのでしょう。

何について意見を持とうとしているのか

日々の暮らしには、気になることがいくつもあります。その一方で、テレビやSNSで繰り返し目にする話題について、いつの間にか考えていることもあります。

報道と人々の関心との関係を扱った研究に、メディアの「アジェンダ設定」があります。何に賛成するかという以前に、何を重要な問題として意識するかに目を向ける考え方です。

マコームズとショーが1972年に発表した研究では、アメリカ大統領選の際に、ある地域で投票先を決め切っていない有権者が重要とした問題と、新聞やテレビなどが重点的に扱った問題の間に強い対応が見られました。

ただし、これは調査と報道内容を比べた研究で、その対応だけでメディアからの影響を証明できるわけではないと、著者たちも述べています。[1]

それでも、「何について考えるか」という入口にも調べる余地があると分かります。自分で選んだ関心事のように感じていても、目に入る話題の選ばれ方と関係しているかもしれません。

では、その話題についての意見は、何を材料にして生まれるのでしょう。

出来事を読むことと反応を読むこと

記事に書かれた出来事を知ることと、それに対する他の人の評価を知ることは異なります。ただ、同じ画面で続けて読んでいると、両方が重なった印象を持つこともありそうです。

この点を考える手がかりとして、企業をめぐる架空のトラブルの記事を使った実験がありました。企業を擁護するコメントも読んだ人は、記事だけを読んだ人より、その企業の責任を軽く評価していました。[2]

同じ実験では、コメントへの「いいね」が多い条件で、そのコメントがより信頼できると評価されました。一方、企業の責任や評判の評価については、「いいね」の数による有意な差は確認されませんでした。コメントを信頼することと、出来事についての判断が変わることも、同じではなかったのです。[2]

特定の実験の結果ですから、どんなニュースでも、誰でも同じように影響されるとは言えません。けれど、出来事を考えているつもりのときに、他者の受け止め方も材料になっている可能性は、具体的に見えてきました。

他者の説明によって、記事に欠けていた事情が分かる場合もあります。影響を受けること自体を避ければよい、という話ではなさそうです。

自分が生きている地点から

ここで、最初の「身の回りから世界へ」という考えに戻りました。

自分で見聞きしたことなら確かで、画面の向こうの情報は頼りないのでしょうか。そうとも言えません。身近な数人の経験だけで、社会全体を判断することもできないからです。報道や研究、人の話に触れなければ、知らないままでいることはたくさんあります。

遠くの災害や戦争について知り、心を動かされ、支援に関わることもあります。その距離の遠さが、自分の生活とのつながりの薄さを意味するわけではありません。

そう考えると、私が「身の回り」と呼びたかったものは、地理的な近さだけではなかったようです。

何が気になったのか。誰の言葉に動かされたのか。その話を自分はどう受け取っているのか。人は、自分が今生きている地点から世界と関わるほかないのではないか。その感覚に近づきました。

初めは意見を形成する順序を考えていましたが、問いは「自分がどこから世界を見ているか」へ動いていました。前の記事で、外の世界を調べるうちに自分の見方にも気づいたことと、ここでつながります。

ただ、その起点になる自分とは、揺るがない意見を備えた自分なのでしょうか。

意見が定まると安心するのはなぜか

たとえば友人と作品の感想を話していて、「私はこの作品が苦手だ」と言ったあと、新たな見方を聞いたとします。それで納得しかけても、先ほどの自分の発言と食い違うことが気になるかもしれません。作品をどう感じるかに加えて、一度言ったことを変えたくない気持ちも入り込む場面です。

考えが定まっていると、迷わずに済む。その安心を求めることもあるのではないでしょうか。

心理学には、曖昧なままでいるより、はっきりした答えを得たいという「認知的完結欲求」を扱う研究があります。クルグランスキーとウェブスターの論文では、早く結論を得ようとする傾向と、得た結論を保とうとする傾向が区別されています。人による違いだけでなく、時間の制約など状況によっても変わり得るものとして論じられています。[3]

もっとも、意見を持ち続ける人を見て「不安だから変えられないのだ」と決めることはできません。十分に考えた結果かもしれませんし、その人が大切にしている理由があるのかもしれません。

この研究を手がかりにして私が考えたのは、意見を変えることを、自分自身まで失うことのように感じてしまう場合はないだろうか、ということでした。これは今回生まれた問いであって、誰の内面にもそのまま当てはまる説明ではありません。

変わることと変わらないこと

自分自身を、世界と関わるためのアンカーのように捉える考えも浮かびました。ただ、その錨を動かない信念だと考えると、今度は自分を固定してしまいそうです。

そこで出てきたのが、「変わっても自分、変わらなくても自分」という言葉でした。

新しい事実を知って意見を変えることも、異なる考えに触れたうえで、やはり同じ意見を持つこともあります。どちらも自分の営みです。長く同じ考えでいるだけで頑なとは言えませんし、周囲に合わせて次々と意見を変えるだけで、柔軟だとも言えません。

意見が変わったかどうかだけでは、その人が何を受け取り、どう考えたかは分からないのです。

意見を持つことと、その意見に自分を縛りつけることは違うのでしょう。確信を持っていても、新しい話を聞くことはできます。調べ直した結果、前の判断を保つ場合もあるはずです。

まだ判断せずにいる時間

さらに考えると、いつも何かの意見を持っていなくてもよさそうです。

誰かに賛成か反対かを尋ねられても、まだ事情を知らなければ、その場で決めなくてもよい。受け入れも否定もせず、もう少し眺めていることができます。

判断していないことと、考えていないことは違います。何を知れば判断できるのか、なぜ引っかかるのかを考えている途中かもしれません。意見を決めずに探究を続けることも、自分の考えを大切にする仕方になりそうです。

もちろん、判断の期限があるときや、誰かへの対応が必要なときには、十分に分からないまま動くこともあります。保留を理由に、目の前の苦しみから目をそらしてしまう場合にも気をつけたいところです。決めることも、決めずにいることも、それだけで望ましい態度にはなりません。

分からない時間をどう受け取るかは、「自分で考えるために、分からない時間を残す」でも考えました。今回はさらに、そうした途中の自分に、何か証明が必要なのかが気になってきました。

自分がここにいることの証拠

意見を確かめようとして研究を探すうちに、別の疑問も生まれました。自分の考えや感覚にまで裏づけを求めすぎることが、自分を不確かにしてはいないだろうか。

これは、証拠を求めると人は不安になる、という心理法則を確認した話ではありません。この探究で私自身が立ち止まったところです。

たとえば、「このニュースを読んで不安になった」ことと、「だから世の中全体が以前より危険になった」ことは分けて考えられます。後者を主張するなら、何がどれほど変化したかを資料で確かめる必要があります。自分が不安になった理由についても、思い違いはあるでしょう。

けれど、不安を感じたことを話す資格まで、研究で示さなければならないのでしょうか。考えが事実に合わなかったとしても、そう考えた自分が一人の人間としてここにいることまで、取り消されるわけではありません。

「何の研究に裏打ちされておらずとも、その人はその人なのだ。自分は自分なのだ。」

そう言葉にすると、確かめたいものの違いが見えてきました。世界について何が正しいかを調べることと、自分自身がここにいてよいことを証明することは、別なのだと思います。

事実に関する意見は、間違っていれば考え直せます。そのための根拠を丁寧に扱うことと、その意見を持った人を大切にすることは、両立するはずです。

その自分で誰かと話す

最初は、意見を形づくる情報について調べていました。そこから、意見が生まれ、変わり、まだ決まらずにいる自分を、どう受け取るかへ問いが移ってきました。

確かな意見を用意できてから、人と関わる必要はないのではないか。知らないことも、他者の言葉に影響されたところもある。その自分で誰かと話し、世界に触れていてよいのだと思います。誰かの影響があったと分かっても、その意見を持った自分を否定する必要はありません。

和会塾でも、子どもも大人も、学ぶ人も教える人も、まず一人の人間として関わることを大切にしています。意見がまとまらない日や、言葉にしたくないときもあるでしょう。その時間に何か成果が生まれたかどうかだけで、対話の意味を決めたくはありません。

話しているうちに、自分の意見がどこから来たのかに気づくこともあるかもしれません。気づいたあとで変わるか、変わらないかも含めて、ともに眺めることができます。和会塾が対話で大切にしていることは、そのような人同士の関わりにあります。

最近口にした意見を一つ思い出すと、ニュースの見出しだけでなく、友人の声や昔の経験も浮かぶかもしれません。その言葉が生まれるまでに、自分は何に出会ってきたのでしょう。

この記事で参照した資料

[1]McCombs, M. E., & Shaw, D. L. (1972). The agenda-setting function of mass media. Public Opinion Quarterly, 36(2), 176–187。原著PDF(ノースカロライナ大学公開)。有権者の重要問題と報道内容を比べた研究を参照しました。

[2]Hong, S., & Cameron, G. T. (2018). Will comments change your opinion? The persuasion effects of online comments and heuristic cues in crisis communication. Journal of Contingencies and Crisis Management, 26(1), 173–182。原著全文(Wiley)。オンライン先行公開は2017年。コメントの内容と、コメントに付く「いいね」の数の効果を分けて参照しました。

[3]Kruglanski, A. W., & Webster, D. M. (1996). Motivated closing of the mind: “Seizing” and “freezing.” Psychological Review, 103(2), 263–283。原著PDF(著者公開)。認知的完結欲求の理論と実証研究を整理した論文です。

ABOUT
わたなべ
わたなべ
東京大学法学部卒業。
司法試験合格、研修後、業界を転向。
“対話で学びを拓く”をテーマに活動しています。
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