まだ名前のないものを、ともに眺める
数学の授業中に、生徒さんが思いがけない計算ミスをすることがあります。どこでそうなったのか一緒にたどり、二人で笑う。
間違えたところは直して先へ進みますが、あとになって思い出すのは、正しい答えよりも、その人がどう考えてその式を書いたかだったりします。
その時間に何が起きたのかを一つの言葉で言い表すのは難しい。数学を教えていたのは確かです。でも、それだけだったとも思えません。
同じ時計で測れない時間
勉強には、学年や試験の日程があります。何歳までに何を身につけ、いつ進路を決めるか。目安があれば、予定を立てることができます。試験や提出の期限があるなら、それに合わせて準備することも必要です。
ただ、同じ学年の人が、同じところから考え始めるわけではありません。
すでに長く気にかけてきたこともあれば、今になって初めて面白いと思うこともある。外からは立ち止まって見える人も、その間、自分なりの時間を生きています。
人によって時計の進み方が違う、と言うこともできるでしょう。けれど、そもそも一つの時計を置き、そこからの早い遅いで人の歩みを見なければならないのでしょうか。そう考えると、何を「進んだ」と呼ぶのかも、少し分からなくなります。
分けること・人を見ること
私たちは、複雑なものを扱うために区切りを設けます。仕事には担当があり、学校には教科がある。国語、数学、物理、英語と分ければ、それぞれの内容を深く学べます。読解力や計算力を確かめることも、必要な手助けを考える手がかりになります。
社会や機械を動かすには、役割や部品を定める必要があります。一方、人は初めから、役割や能力の部品を組み合わせてできているわけではありません。
子どもは自分の経験を「国語」や「理科」に分けてから、周りの人に声をかけたり、目の前のものを不思議に思ったりするわけではないでしょう。
数学も科学も、「どうしてこうなるのだろう」という問いから動き出すことがあります。分野が定まる前に、気になって目を離せないものがある。学問の名前は、その問いを深く扱うために役立ちます。けれども、その名前だけで、問いを持った人まで言い表せるわけではありません。
自分のことを振り返っても、何に心を動かされ、どこで言葉が止まるのかを、得意なことや肩書だけでは言い尽くせません。他の人については、なおさらです。目の前の人にまだどんなものがあるのか、こちらが先に知ることはできません。
名前をつける前に起きていること
和会塾で、定期的にお話ししている大人の方がいます。その方は、国語だけを「習う」のではなく、お酒のことも含めていろいろな話をしながら、自分が楽しめる学びや、これからのことを見つけていきたい、と話しています。
その方は、自分の考えをメモにまとめたり、本を読んで心に残った文章を書き留めたりもしています。話を聞くうちに、こちらが知らなかったことを教わることもあります。
誰かに説明するなら、読書、国語、趣味、これからの暮らしを考える時間、と分けられるかもしれません。それぞれの名前には意味があります。けれど、話している最中に、ここからは国語で、ここからは別のものだと切り替えているわけではありません。
話題が行き来するうちに、その方が話してくれる範囲で、何を面白いと思い、何に引っかかっているのかが少しずつ伝わってきます。
そういう時間に立ち会うと、私が「学び」と呼んでいるものは、名前をつける前からすでに動いているのではないかと思います。
「話せるようになった」と「もともと話せた」
以前、高校生の生徒さんから、対話の授業を通じて、人と話すことが前よりできるようになった、という趣旨の言葉をいただきました。本人にとって大切な変化だったのだと思います。
一方で、私には、その生徒さんは最初からきちんと話せる人に見えていました。自分の考えを持ち、相手の言葉を受け取りながら話してくれる人です。私が何かを与えて、話せない人を話せる人に変えた、という感覚はありません。
私が見ていない場所で、その人が何に難しさを感じていたかは、本人にしか分かりません。本人には「できるようになった」という実感がある。こちらからは、もともとあったものが、話す中で表に出やすくなったようにも見える。この二つを、どちらか一方にそろえなくてもよいのだと思います。
誰かと話しながら、自分でも知らなかった言葉が出てくることがあります。そこに何が起きたのか、教える側にも決めきれません。ただ、その言葉を一緒に聞くことはできます。
流れも、詰まりも
対話や授業で、「今日は流れがよい」と感じることがあります。話が途切れない、という意味ではありません。問題の解き方をたどるうちに思わぬ考えが現れたり、勉強から外れた話題を通して、その人の気にかけていることを知ったりする。生まれた言葉を二人の間に置き、一緒に見られるとき、流れがあるように感じます。
反対に、何かが詰まっているように感じる日もあります。互いに言葉を選びすぎているようなとき。まだ本人の中でも確かめきれていない目標だけが、先に口に出ているようなとき。こちらばかりが話していると気づくこともあります。その時間を過ごすこと自体が、相手にとって負担になっているのかもしれません。
もっとも、私に相手の内側が見えるわけではありません。黙っている理由を、意欲や性格のせいにすることもできません。疲れているのかもしれないし、私の問いが答えにくかったのかもしれない。
確かめられることは確かめ、まだ言葉にしたくないことはそのままにしておく。詰まりをすぐほどこうとするより、そこに何があるのかを一緒に眺められたらと思います。
数学が解けたかどうか、勉強が進んだかどうかも大切です。それでも、思い返して面白いのは、そこにその人の見方が現れ、私も知らなかったものに触れるときです。詰まったところから、思いがけず話が始まることもあります。互いにその道筋を面白がれたら、その人がその人として現れる時間になりうるのかもしれません。
あとからなら、あれは学びの時間だったと言えるかもしれません。名前をつけなくても、計算の道筋を二人でたどった時間は、たしかにそこにあります。次に何が見えるのかは、まだ分かりません。
和会塾での対話について、もう少し具体的に知りたい方は、「対話」は、和会塾の授業科目ですをご覧ください。
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