物語は心で味わい、筋を見抜く―「主観」と「客観」の繋がり

「物語文は“正解”がひとつではない」――そう感じたことはありませんか?
前回から『好きなように読んでいい―現代文の第一歩』として、現代文の問題に対する総合的な取り組み方を検討しています。
今回は「小説・物語文」の読み方について書いてみようと思います。
「客観的に」が不可能であること
マーク式の試験(共通テスト、センター試験その他)が導入されて以来、
- 客観的に文章を読む
- 書いてあることだけ答える
ことは、半ば自明のこととして語られつつあります。
マーク式の場合は正解とされる解答がすでに紙に記されており、理想論として、誰が読んでもその選択肢を選ぶはずだと言えなければなりません。
そのためには、本文中に書いてある内容のみを基礎とする建前を取るしかなく、そうでなければ、その選択肢を正解と扱うことができないからです。
しかし、とりわけ小説や物語文(以下、まとめて「物語文」といいます。)は、上記のことが成立しない読解素材であることを確認しておかなくてはなりません。
物事の受け止めがすでに「主観」
いま、この文章を読んでいるあなたがどのように理解してくださっているか、それ自体が主観的なものです。
なぜなら、書き手は自らの知識や経験を利用して(主観的なもの)一定の方向性をもって書いているし、あなたもこれまでの知識・経験(主観的なもの)などに照らしてこれを読んでいるからです。
まして物語文において、登場人物のふるまい・発話・そこに至る場面や出来事の流れから、どのようなものを取り出し、いかなる印象や感覚などを見出すかは、なおのこと主観的であるはずです。
どこにでもあるような会話・出来事でも、人それぞれの生い立ちや経験により、さまざまな色がついて受け止められるからです。
物語文の学習・練習として小説を読むことが推奨されるのも、以上のような主観的な理解力を高めることを念頭に置いていると考えられます。
もし、この練習が特定の情景描写から特定の感じ方をするよう強制(矯正)する訓練であるなら、それこそ教育が目指す幅広い見識や人格の養成と逆行する画一化ですから、不適切です。
自分の感じ方が大事
したがって、当たり前のことなのですが、物語文の読み取りにおいては評論文・論説文以上に自分自身の感じ方が大切です。
ストーリーの表面や字面に示されているものから、その背景にある事情、状況、登場人物の特質や考え方の傾向、人物像、ひいては書き手の気持ちや意図、趣旨まで、読み手なりに把握しなければなりません。
そのうえで、作品(文章)の可能性や意義を深め、拡大する方向こそが、ここでいう「自分自身の感じ方」です。
そして、現代文の問題で物語文を出題する趣旨はこの点にあると考えます。
- 物語文の素材から、まずは最大公約数的なもの(これを「客観」と呼んでいる)を引き出すことができる読解力、感性を備えているかどうか
- 書き手の文脈を感じ取り、たとえば違和感がありつつもそういうものとして理解することができるか
- さらには自分なりにその文章の可能性を深めることができるか
試験ではなく学校でおこなうような国語の授業でも、こうした深掘りを大切にして、各自の引き出しを増やし広げているわけですね。
なぜなら、国語は言葉や文章を通じて自分自身と対話し、自分自身を表現する科目だからです。
物語文もまずは好きなように読むことからスタートしてみてください。
そうしてこそ、いろいろな可能性を検討することができる土台づくりができ、あなたなりの国語力が身に着いていきます。