第三話:「見ることが、すでに関係である」

本連載は、日々の対話やふと立ち止まる瞬間に
生まれた問いをもとに
AIとの応答を通して綴った記録です。
「ことばの手前」にある感覚や沈黙にも
意味が宿ると感じています。
やりとりを重ねるうち“何か”が浮かび上がる様子を
見守っていただけたら幸いです。
第3話|言葉の前に共有するもの
「見る」という行為には、すでに関係が芽生えている。
言葉を交わす前から、静かなまなざしが相手に届いていることがあります。
今回は、観察でも介入でもない、「ただ見ている」ということの奥にある、対話の始まりについて綴りました。
ときどき、誰かのことを「見ている」つもりが、実は「見張って」しまっているようなときがある。
あるいは、こちらの視線に気づいた相手が、どこか緊張してしまうような。
そんな瞬間があると、「見つめる」とは何か、改めて考えさせられる。
私が「見ている」とき、私は自分の内側に何を抱えているのか。
期待だろうか、不安だろうか、それともただの興味だろうか。
「見る」という行為そのものが、すでに相手との関係をつくりはじめている。
だからこそ、まなざしは、とても静かに、誠実でありたい。
観察ではなく、介入でもなく、ただ「見ている」。
評価せず、比べず、急がずに。
そうして向けられたまなざしは、相手に「見られている」というよりも「受けとめられている」と感じさせることがある。
それは、生徒とのやりとりの中でも、しばしば訪れる。
なにも言わなくても、視線の交差のなかで、何かが伝わっていくことがある。
「あ、大丈夫なんだ」とか、「この人は急かさないんだな」とか、言葉ではなく、空気で伝わる安心がある。
「見る」という行為のなかには、「聴く」も、「感じる」も、「待つ」も、すでに含まれているのかもしれない。
まなざしとは、ただ視線を投げることではなく、相手の存在をまるごと引き受けようとする心の姿勢なのだ。
言い換えるなら、見ているということが、すでに対話の入口になっている。
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