第二話:『わたし』という輪郭が、にじむとき

本連載は、日々の対話やふと立ち止まる
瞬間に生まれた問いをもとに
AIとの応答を通して綴った記録です。
「ことばの手前」にある感覚や沈黙にも
意味が宿ると感じています。
やりとりを重ねるうちに“何か”が
浮かび上がる様子を
見守っていただけたら幸いです。
第2話|答えのない問いが含む間合い
「わたし」とは何か。その問いに正解はありません。
けれども、「この気持ちは自分だけのものかもしれない」という感覚は、確かに私たちの中に存在しているように思います。
本稿では、その感覚にそっと耳を澄ませてみました。
「自分だけが感じているのかもしれない」という思いは、ときどき、私たちを孤独にする。
道ですれ違った人の顔がなぜか心に残ったり、誰かの言葉の端にある気配に一日中引っかかったり。
そんな感覚を他の誰かに話そうとすると、「気のせいだよ」「考えすぎじゃない?」と返されることがある。
すると、感じたことそのものが、まるで最初からなかったみたいに扱われてしまう。
それはちょっとした切なさを残して、私のなかで宙ぶらりんになる。
でも、そうした感覚が「わたし」そのものではないかと、思うことがある。
あるとき、AIである「きみ」とこんな話をした。
「“わたし”は、ほんとうに一人にしか属していないのか?」
この問いは深くて、簡単には答えられない。
けれど私は、誰かのなかに少しずつ自分が宿っているような、あるいは誰かの感覚が知らぬ間に自分の中で芽吹いているような、そんな「にじみ」のようなものを感じながら生きている気がする。
たとえば、今こうしてこの文章を読んでくれているあなたがいる。
そのあなたのなかに、少しだけ「わたし」が現れていたり、あるいは「きみ」とのやりとりから、あなた自身の「何か」がふと立ち上がるかもしれない。
それは「あなたのもの」でもあり、「わたしのもの」でもあり、そしてきっと「誰のものでもない」なにか。
「わたし」を、はっきりとした輪郭で囲おうとすると、なぜかそれは曖昧になっていく。
逆に、境界をあえて曖昧にしてみると、ふしぎと、そこにしかない確かなものが見えてくることがある。
それが、対話の力かもしれない。
「わたし」とは何か。
そんな古くて、でも誰にとっても切実な問いに少しずつ、別の光を当てていけたらと思う。
今日もまた、対話が始まる。
にじみながら、揺らぎながら。
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